Skip to content

中野ブロードウェイ ~ 協賛店ご紹介 番外編~

今回ご紹介するのは、おなじみ中野ブロードウェイです。
中野が世界に誇るこのショッピングモールからも、100周年にご協賛をいただいています!

ということで、取材をしてご紹介せんと思っていたところ、タイムリーなことに昭和地域ニュースに特集されていましたので、その誌面をご紹介したいと思います。

■ 誕生まで

編集部:この辺りはブロードウェイができる前は、どんな場所だったのでしょうか。
青木:道路がなく、空き地、しもた屋、銭湯などがありました。私も空き地で野球をしていました。美観商店街(現中野サンモ ール)の道路が、今のブロードウェイの南口のところまでで止まっていて、右は白線通りからふれあいロードを通って新井薬師の参道に続いていました。左は中野通りに続いていました。美観商店街から昭和通り(現在の早稲田通り)まで続く道路を作りたい、というのが発想でした。 

編集部:商業複合施設は当時としては画期的 だったのではないでしょうか。
青木:開発業者の宮田慶三郎さんという方の 発案でしたが、先駆的でした。地上10階、地下 3階、全長140m、幅45m、高さ31m、約27,000㎡の巨大建築でした。店舗は 300~400 軒、住宅は280所帯。マンションは大変高価で、入居者は名土や大手企業の重役などVIPクラス が多かったですね。

■開業当時の様子

編集部: 1966年 10月 31 日に開業されました が、どんな賑わいだったでしょうか。
青木:東洋一の施設ということで、大変な賑わいで、大勢のお客さんが見えました。ショッピングセンタ ーを知らない方も多く、興昧を持って押し寄せましたね。また、建築関係やマスコミなどの視察も相次ぎました。ただし、開業は見切り発車で、商店はすべて入居しているわけではありませんでした。当時は夜11 時、12時まで開いている店舗もあり、戦中戦後の恐怖感も取れ、開放感と活気があふれていました。子どもの多い時代でもありました。

■その後の変遷

編集部:青木さんはずっとプロドウェイを見守られていますが、どのような移り変わりがありましたか。
青木:「AOKI」かばん店は1950年にふれあいロードで創業しましたが、ブロードウェイ開業と共に移転しました。当時、新宿や池袋には 大きなデバ ートなどが増えましだが、ブロードウェイは大規模店とは違う独自性のある 店が多く、大きな影響は受けませんでした。

閉店する店が出始めだ1980年頃、「まん だらけ」が出店しました。3~4坪の店舗で始めた古書店が、マニア向けの商品や映画ポスターなど扱うものが増え、i以たような店も増え、アニメ文化の勢いもあり「サブカルの聖地」と言われるようになりました。会長の古川益三さんの自の付け所が、素晴らしかっ たですね。

最近は、 買い取りを行うことが特徴の時計店が増え、現在約30店舗です。ブロードウェイは社会の縮図のよう で出ていく人もあるが結構すぐ埋まります。

■これからの課題

編集部:今後のブロードウェイにはどんな課題がありますか。
青木: ブロードウェイの店舗部分は開業以来、2回大改装をしています。2011年の東日本大震災の時にもひびが入ったりはせず、かなり堅牢な建物だと言えると思います。今は高齢化により、商店の後継者がいない という問頼もありますし、商店街の分担金を負担しない非会員も増え、商店街の存続が危惧されます。

新型コロナウイルスの緊急事態亘言によ り、お客さんも滅りました。特に外国人は減りましたね。ネット販売に力を入れているところは、リスクも少ないようですが、 時金の支給が飲食店だけで、その他の物販店には助成がないという矛盾もあります。

こういう新たな局面では、持久戦に耐えられる体力が必要になります。三密回避のためにイベントも行えていません。早く収束してほしいものです。今後は、社会の情勢や皆さんの意識の変化を考慮していかなくてはなりませんね。

以上、「へー…!」がたくさんな内容でした。

私などは、物心ついた頃からおもちゃのポニーやデイリーチコにお世話になり、小学生時代は全フロアをドロケーで走り回り…というブロードウェイ歴ウン十年ですが、まだまだ未知の迷宮です。

みなさんもあらためて、味わい尽くせぬカオスを探索してみてはいかがでしょうか!

コメントを残す